Masuk翌日。
私は騎士向けの寮を出て、宮廷内に移り住むことになった。 表向きは、二十歳の成人を前に殿下の身の回りを固め、護衛を強化する、という理由だった。 引越しを済ませて私は指定にいる皇太子殿下に挨拶へと向かう。 殿下は今学生で、普段は大学へ通っておられる。 今日は休日であるため、私邸にてお休みになられているはずだ。 私は、女官に連れられて皇太子殿下の私邸へと入る。 人の気配を感じない、とても静かな場所だった。 香、だろうか。 森の中のような匂いが漂っている。皇帝陛下の私邸とはずいぶんと違う匂いだ。 私は殿下とお会いするというので、着慣れない、紅の上衣にスカートを着てしまった。おかげで足のまわりが何だかすーすーしてしまう。 普段はズボンなのだから、気にせず普段着を着ればよかった。 居心地の悪さを感じつつ廊下を進んでいくと、女官がある扉の前で立ち止まる。 「殿下、ホ様をお連れいたしました」 「あぁ、入ってもらって」 穏やかな、少年のような声が中から響く。 「失礼いたします」 女官がそう声をかけると扉を開き、私に中に入るよう促した。 「失礼いたします、皇帝陛下の勅命により、本日よりツァロン殿下の護衛の任に着きました、紅雪華でございます」 名乗り、私は室内へと入る。 すると背中で扉がしまる音がした。 ここは、いわゆる居間、だろうか。 青い上衣を羽織った黒い髪の青年が読んでいた本を机に置き、長椅子から立ち上がる。 まだ幼さの残る顔。優しげな二重の瞳。 背は陛下より少し高いかもしれない。 長く伸びた黒髪を後頭部で縛った彼は、頭を下げて言った。 「ツァロンです。今回はお手数をかけいたします」 その物言いに、私はたじろいでしまう。 彼は次期皇帝だ。 威厳に満ち、見る者を魅了する皇帝陛下とはずいぶんと違う。 姿は似ているが、なんだろう。まとう空気や声の質が、違うものに思えた。ずいぶんと柔らかな空気をまとっている。これで皇帝になるのか? 少し不安になるのだが。 驚きのあまり固まっていると、殿下が自分の前にある長椅子を示して、 「どうぞ、こちらに」 と、声をかけてくる。 「し、失礼いたします」 そう、震えた声で答えた後、私は殿下の前にある椅子に近づいた。 「おかけください」 「はっ」 殿下が座るのを待ってから、私も椅子に腰かける。 するとすぐに扉を叩く音がした。 入ってきたのは先ほどの女官だった。 どうやらお茶を持って来てくれたらしい。 「こちらをどうぞ」 と、湯気があがる湯呑と、青い皿を机の上に置く。 皿の上にはお菓子がのっていた。 かりんとう、だろうか。甘い匂いがわずかに香る。 「戦場から帰ったばかりなのに、申し訳ないです」 女官が去った後、殿下が再び頭を下げた。 これはどうしたらいい。 こんな対応は初めてで戸惑いばかりだ。 「あ、え、あ、頭をお上げください。私も仕事ですから。それに」 そこで言葉を切り、私は息をすっと吸う。 部屋に漂う、僅かな爽やかな香りが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれるような気がした。 「皇帝陛下の勅命でございますから」 そう言葉にすると、背筋がぴんと、さらにのびるような気がした。 殿下はなんとも複雑な表情を見せた後、 「父上……」 と呟き、視線を落としてしまう。 その様子に違和感を覚えたが、そこは私が立ちいるべきものではないだろう。 そう思い、湯呑を手にした。 じわりと熱いお茶に、手が温まる。 「陛下から話は伺っております」 「そう、なのですね。彼女が殺されなくてはならない理由などないのに」 そう呟いた殿下からは、悲壮な空気を漂ってくる。 自分のせいで侍女が殺されたかもしれない。 そう思ったら気が気ではないだろうな。 「事件の詳細は伺っていないのですが……どういった状況だったのですか?」 「いえ……朝、起きてこないので女官が宿舎を見に行ったところ、すでにこと切れていたと」 「外傷は」 思わず出た声に緊張が走る。 殿下は首を振り、 「毒、だったそうです」 と苦しげに答えた。 毒殺。 どういう毒が使われたのだろう。 「あらそった形跡はなく、詳しい状況はわかっていなくて。ただ、宮殿内の出来事であり、僕付きの侍女のひとりでしたから……」 そこで言葉を切った。 「彼女にはもう孫もいて、その成長を楽しみにしていたのに」 殿下はそう言った後、目元に手をやった。 泣いているのだろうか。死んだ侍女のために? 皇帝陛下や殿下に着く女官は、年配の女性が多い。 妊娠する心配のない女性が選ばれるからだ。 護衛でもなければ私のような若い女が、おそばにお仕えすることはまずなかった。 そんな女官に心を寄せるとは。殿下はとてもお優しい心を持っていらっしゃるらしい。 ――陛下とはずいぶんと違う。 そんな想いが生まれ、私はその考えを打ち消すように大きく息をつきお茶へと口をつけた。 「そうなると、宮殿の中に暗殺者がいると?」 「えぇ、そう、なりますね。残念なことに」 とはいえ、容疑者はいったい何人になるか。 後宮の妃たち、女官、侍女、首相や大臣だって、宮殿には出入りできる。 しかも女官の寮だ。女性であればそこまで出入りは厳しくないだろう。 殿下を狙っているのでは、と仮定すれば話は別だが。 「とはいえ、なぜ殿下のお命を……?」 そこが理解できなかった。 後継者争い、とも思ったが、そもそも陛下に皇子はひとりしかいない。他は皆姫だ。 どうやって後継者争いが起きうる? 「不思議に思いますよね。でも僕はそう、思えないんですよ」 諦めたような顔で言い、殿下は私を見た。 「それどういうことでしょうか」 「父の放蕩は、貴方もご存じでしょう」 その言葉が、私の胸を鋭い刃のように抉る。 けれどそんなもの態度に出せるわけはなく、冷静に、私は頷き答えた。 「はい」 皇帝陛下の女遊びは昔から有名だった。 幼い頃、私が初めて新年の一般参賀の訪れた日もそんな噂話をしている人たちがいた。 後宮がありながら、外に何人もの女を囲い隠し子がいる、という噂がずっとある。 実際に、息子は皇帝の子供だ、と主張する者があとを絶たないと聞いた。 だけど誰も真に受けない。 皇帝陛下が一切認めないからだ。陛下が認めなければ事実ではない。 それが帝国の決まりだから。 「殿下は、陛下の放蕩が理由でご自分が狙われたと?」 慎重に言葉を選んで言うと、殿下は深く頷いた。 確かにそれならありうるかもしれない。 でも……それならなぜ直接殿下を狙わない? その時だった。 バタバタという足音と共に、勢いよく扉が開いた。 年配の女官は肩で息をしながらがたがたと震え、声を上げた。 「た、た、た、大変です!」 私はその言葉を聞き、ばっと立ち上がる。 肌が総毛立つ。何かよくないことが起きたと、頭の中で警鐘が鳴り響く。 「し、し。死体が……死体が……!」 「死体……?」 私は立ち上がり、女官に歩み寄る。 「死体とはどういうことだ?」 「ひ、ひとり時間になっても起きてこなくてそれで……起こしにいったら死体があったと……血がすごくて……」 がたがたと震えて言う女官は、そのまま床に座り込んでしまう。 「シュエファさん」 「はい」 私は殿下の呼びかけに頷き部屋を飛び出した。 後ろを足音が続く。 女官の寮はこの私邸から少し離れている。 警備を通り門を出て、庭を走る。 女官の寮に入る門にいる警備を通って、私たちは人の騒ぎを追って現場へと向かった。 「う……」 現場に入り、最初に目に飛び込んだのは血まみれの死体だった。 腹を裂かれた死体。 血の海でこと切れている、年配の女官は虚空を見つめていた。 「シュエファさん、壁……」 怯えた声で言う殿下の声に私は顔を上げた。 すると、白い壁に赤黒い血でこう書かれていた。 ――『次は、お前だ』 それを見て、私は顔をしかめる。 なんてことだ。 皇太子殿下護衛就任早々、殺人が起きるなんて。 ――気に入らない。 私はぎゅっと拳を握りしめて、忌々しく血文字を見つめた。殿下の誕生日の祝宴を終え、年末がやってくる。 宮廷内は慌ただしく正月の準備を進めていた。 その後、あのリン、という女官との接触はない。 彼女は皇帝陛下が住まう宮殿を中心に仕事をしているらしくを合わせるような機会がない。 見かけたところで気が付くか、と言われると微妙だが。見た目が特徴的ではないし。 その女官が皇帝陛下に仕えているため、殿下と面識があったから殿下は名前を覚えていたようだが。そうでなければ、印象にも残らないだろう。 私だってもう一度すれ違ったとして気が付くかといわれたらあまり自信はなかった。 祝宴から二週間近くが過ぎたある夜、湯を浴びたあとの習慣となった殿下とのお茶の時間。 隣に座る殿下は私に向かって言った。 「その後、例の女官の接触はないんですか?」「えぇ、とくには。そもそも私は陛下の住まう宮殿に行くことはそうそうないですから」 淡々と答え、私は湯気を上げる湯呑を手にする。 北の国から取り寄せた、というお茶はかぐわしい香りを漂わせている。「というと、父とも顔を合わせていないのですか?」 父、という言葉に一瞬私は手を止めてしまうが、なるべく平静を装い殿下の方を向き答えた。「えぇ、お会いしておりません。呼出もありませんし」 その言葉を聞いた殿下は心底安心した様な顔になる。 そんな顔を見せるのもどうかと思うが、殿下は心底皇帝陛下のことを毛嫌いしているようだ。「それならよかったです。父は……そもそも後宮があるのに方々に浮名を流していて、僕には理解できないです」 顔を歪めて殿下は言い、湯呑を握りしめてぐい、とそれを飲む。 ここ、殿下の私邸にいても皇帝陛下の女遊びの噂は尽きず、しょっちゅう耳にする。 どこの商人のお嬢さんと密会をしているとか、大臣の娘と懇意だとか。人妻を連れ込んでいるだとか。日頃の行いがおこないなので、どの話も本当のことのようにしか聞こえず、噂は広がっていくばかりだ。 私だってそんな女のひとりだった。その事を思うと私は殿下が抱く嫌悪感に何も言葉にできず、ただ黙ってお茶を飲むことしかできなかった。「このまま何も起きなければいいですが」 と言い、殿下は私の膝にそっと、手を置く。 殿下は最近、こういった接触を私にしてくる。 最初は驚いていたが最近は慣れてしまい、私は湯呑を机に置いてその手に自分の手
私の呟きに殿下は肩をすくめて苦笑を浮かべる。「それは難しいかと思います。だってもし犯人に気が付かれたら命が危ないですし。この話だって、時間が経ったから出てきたのだろうと思うので」「そうですよね……そう思うと見つけるのは難しいか。でも、少しずつ話が表に出てくるかもしれませんから噂をたどるのはいいかもしれません。時間が経って、黙っていられなくなってくるでしょうし」 そうなったら敵は何か動き出すかもしれない。 殿下の私邸に忍び込むようなことはしないだろう、とは思う。なぜならこの私邸に出入りできる女官は限られているし、知らない顔があれば目立つからだ。それ以外にここに入れる女性は、殿下の母上くらいだろう。護衛の兵も自由に出入りすることはできないのだから。 そうなると、この中は安全と思って大丈夫だろうか。いや、ここに出入りする女官たちから鍵を奪われたら最後か。直接殿下を手にかけるような、愚かなことはしないと思いたいが。 そう思い、私は湯呑に手を伸ばした。 殿下も湯呑を手にし、不安げに瞳を揺らして言った。「あの、リンさんは事件に関わりがあるんでしょうか」「私を睨み付けていたのは事実です。私と彼女に何の接点もありませんから、あるとすれば殿下との関わりしかないかなと思います」 そう答えて私はお茶を飲む。香ばしい香りのお茶で、身体が温かくなる感じがした。「あの時のお茶、何か仕込まれていたんでしょうか」 呟き、殿下は湯呑の中を見つめている。 それは確かめようがなかったのでわからないが、どうだろう。あの状況で何か仕込んだら彼女は疑われるだろう。誰でも何かを仕込める状況でもあったからそうでもない、だろうか。 殿下の言葉に私は何も答えられず、黙ってお茶をぐい、と飲んだ。 殿下は何かを思いついたのか、ばっと顔を上げて微笑み言った。「もし仕込まれていたら、シュエファさんのお陰で危機を避けられたことになりますよね」「あぁ、そう、なりますね」 仕込まれていたら、の話だが。私は湯呑を置き、殿下が用意してくれたお菓子に手を伸ばす。今日のおやつはいもけんぴだった。甘い香りがわずかにしてくる。 殿下は湯呑を置き、お菓子を摘まんだ私の手を両手でそっと握ってきた。 驚く私に、殿下は頬を赤らめて言った。「ありがとうございます、シュエファさん」「え、あ……いいえ。あの、
朝食の後、殿下は今日一日、私邸の中で過ごすというので私は自室に下がり女官たちの資料に目を通した。 昨日、私を睨んできたあの女官。確か殿下は、リン、と呼んでいた。 年代は多分三十歳前後。同じ名字の名前は何人もいたが、その世代の女官は数人しかいなかった。 そして、巳の家の推薦、となるとひとりだけだ。 林 氷蘭。年齢は三十二歳か。たぶんあの時お茶を運んできたのはこの女性だろう。 二十歳ごろに女官となって一度やめ、二年ほど前に戻ってきたらしい。 学校を卒業した後しばらく働いて、結婚や出産で辞めてまた復帰するのは普通なのでそれは問題ないが。普通は子育てが終わるころに皆戻って来る。三十歳で仕事に復帰するのは少し早いように思う。しかも女官の大半は、宮廷内の寮に住むことになる。小さな子供がいる状況でここで働くことを選ぶのだろうか。 そう思うとなんだか不自然な気がした。「でもまあ、子供を家族に預けて、ということもなくはないが」 そう呟き、私は机の上の湯呑に手を伸ばした。 子供がいるのか、ということまでは書かれていないが、夫はいるらしい。 疑わしい、と思ったら何もかもが怪しく見えてくる。 「昨日の祝宴から、動きがあればいいけれど」 そう呟くが、その動き、というものが誰かの死を伴うとなるとまずい。 私を襲ってくれた方が嬉しいのだが。 そう思ってお茶を飲み、私は資料を見つめる。「なかなか尻尾を出してくれないね」 そう呟き私は資料にある名前を撫でた。 その時、扉を叩く音がした。「シュエファさん、あのお話があるんですが」 殿下の声がして私はびくっと震えてしまい、頭の中に今朝の出来事がよぎる。 話、というのはきっと昨日のことだろう。昨日の今日で何か情報を得たとは思えないが。 いや、女官たちがなにか噂していたような気がするから、彼女たちから何か聞きだしたのかもしれない。 私は慌てて立ち上がり、扉へと近づきそっと、それを開く。 廊下に立つ殿下は、私の顔を見てぱっと、嬉しそうな顔になる。「あの、昨日の女官の事なのですが」 と言い、辺りをちらっと見まわす。 もちろんここには誰もいない。掃除はすでに終わっているし、用がなければ二階に女官たちは上がってこないのだから。「話をしたいのですが女官たちに聞かれたらまずいし、どうしよ
殿下の部屋の前を離れて自室に入り、私は勢いよく寝台に寝転がった。 疲れた。 殿下の誕生日の祝宴。怪しい女官。殿下のおじい様の言葉。陛下の執着。そして―― 私は自分の唇をそっと指先で撫でる。 先ほどの殿下は、普段とは別人のようだった。 まるで肉食獣のような目で私を見つめていたが、あれが殿下の本質なのか? 陛下とはまるで違う、と思っていたがその本質は同じなのかもしれない。 私は、殿下の何を見てきたのだろう。 私は今まで皇帝陛下と何度も身体を重ねてきた。それは私が望んでのことだし、愛人であり遊びであることも理解していた。 なのに私は殿下と過ごすようになってから陛下から心が離れ、以前のようなときめきはなくなってしまった。 そして殿下の行動、言動に心を揺り動かされている。 私は仰向けに寝転がり、天井を見つめる。 「私らしくないだろう」 年下の殿下に振り回されるなんて。 自分で自分の感情がよくわからない。 けれど。殿下に口づけられて、私は拒否できなかった。「嫌では……なかったしな」 そう呟き、私は大きく息を吐く。 皇帝陛下との情事は嫌で仕方なかったのに。私の心はすでに殿下の所にあるのだろうな。そう自覚すると、一気に全身の体温が上がるような気がした。 陛下と関係を持ったうえで殿下とも? いや、それは私の倫理観が許さない。あってはならないだろう。 いくら殿下に皇帝陛下との関係がばれてしまっているとはいえ、ダメだ。そんなのは。 そう自分に言い聞かせて私は寝返りを打ち、扉の方を見つめた。 殿下と同じ屋敷の中。男女が同じ屋根の下、というのは本来ならよくないのだろうが。男が極端に少ないこの国ではありうることだ。そんなことを気にしていたら、護衛などできないのだから。 今、その事が完全に裏目に出ている。 もう私は、この檻から出られることはないのだろうな。 ならば、腹をくくるしかないだろうが。 今私がしなくてはいけないのは犯人探しだ。 恋にうつつを抜かしている場合ではない。 そう自分に言い聞かせて、私は目を閉じた。 疲れていたからだろう。あっという間に私は夢の世界へと旅立った。 翌朝。 朝の見回りをした後私邸へと戻ると、朝食のいい匂いが漂ってきた。 女官が朝食を作ってくれているのだろう。 食堂へと向かうとそこには誰の姿もな
このままではまずい。 そう思い私は口付けの合間に殿下に向かって言った。「お、お戯れは止めてください」「……僕は本気ですよ、シュエファさん」 愛おしそうに目を細めて言い、殿下は触れるだけの口づけを繰り返す。 なんてもどかしいんだろう。 少し前に、皇帝陛下と情事を重ねたあとの私には物足りなさすぎる。 けれどそんなこと口にできるわけがない。 どうやってこの状況を乗り切るのか、その考えで頭の中はいっぱいになっていた。 だが何もまとまらない。私が本気になればこの場から逃げ出すのはたやすい。だがそんなことをしたら殿下を傷つけてしまうだろう。 身体も、心も。 そう思うと動けなかった。 満足したのか、唇を離した殿下は熱い視線で私を見つめてくる。 そんな殿下に私は、震える声で言った。 「殿下……」「ツァロン、ですよ、シュエファさん」 言いながら彼は私の唇をそっと、指先で撫でる。 そう言われても、名前でなど呼べるわけがない。私は殿下の護衛、なのだから。 私はそんな殿下の手首をそっと掴み、首を振り絞り出すような声で言う。「もう遅いです。お休みになられた方がいいですよ」 これでなんとかこの場をやり過ごしたい。 殿下はにこり、と笑い、「そうですね。では一緒に行きましょう」 と告げ、立ち上がり私に手を差し出した。 その手を拒絶できるわけがなく、私は仕方なくその手を掴む。 立ち上がった私を満足げに見つめ、「行きましょう」 と言い、私の手を掴んだまま歩き出した。 掴まれた手の力は強く、簡単に振り払えそうにない。 まさかこのまま寝所に私を……? そんな考えが頭をよぎるが、そんなはずない、とすぐに否定する。 けれど私の心臓は確実に早鐘をうち、私の頭の中は殿下から逃げる方法を考えるのでいっぱいだった。 だがどう考えても無理だ。そもそも、殺人事件が起き、殿下の私邸に住む、と言い出したのは私ではないか。 今さら逃げられるわけがない。 どうか、このあと何も起きませんように。 私はそう、守護獣に祈り殿下に連れられて階段を上った。 廊下に着き、そのまま殿下は私室へと向かう。その間も殿下は私の手を離そうとはしなかった。 そして、殿下の部屋の前に着く。 このまま私を解放してほしい。そう願う私に、殿下は振り返り言った。「ねえシュエファさ
湯を浴びて廊下に出ると、案の定殿下が現れ濡れた瞳で私を見つめた。「あの、シュエファさん」 震える声が響き、私の胸に痛みが走る。今、私は殿下の顔をまともに見られない。「はい」 そう短く返事をして私は殿下から視線を外してしまう。 風呂場で確認したが、胸などに陛下の痕がついていた。ということは首にもなにか痕跡が残されているかもしれない。 そう思うと気が気ではなかった。「あの、お茶を用意してあるんですが」 やはりそうなるか。 もちろん断れるはずがなく、私は諦めて顔を上げ、力なく笑った。「ありがとうございます」 礼を告げて私は殿下の後について居間へと入った。 温かな部屋。机の上に並べられた、ふたつの湯呑。それはどちらもいつも殿下が座る長椅子の前に置かれている。 それを見て私は違和感を覚えたものの、当たり前のように殿下が隣を示して、「座ってください」 と言うので仕方なく従った。 私は湯呑を手にし、殿下の方に目を向ける。「お疲れではないのですか?」「あはは、そうですね。でも大丈夫です」 と、疲れた顔で答えて湯呑に口をつけた。 その様子を見て私は、胸にざわめきを感じながら「ご無理はなさらないでください」 と声をかける。 すると殿下は私の方を向いて、「ありがとうございます」 と屈託なく笑った。 その様子を見て私は陛下との違いに戸惑ってしまう。 本当に血の繋がりがあるのか、と疑わしくなるほど殿下は穢れを知らない、真っ白な存在に見える。 絶対に、私と陛下との関係を、殿下に知られてはならない。 隣にいればいるほど苦しくなってきてしまう。 早くこの場を離れなければ。 私は一気にお茶を半分飲み、大きく息をついた。「ねえシュエファさん」 耳に絡みつくような甘い声が聞こえ、私はハッとする。 驚いて殿下の方を見ると、いつの間にか湯呑を机に置いた殿下が私の方にすっと、手を伸ばしてきた。 その手が頬に触れて、顔が近づいてくる。私は殿下から目を離さず湯呑をゆっくりと、机の上に置いた。 これから何が起きるのか。考えると胃の底が冷えるような気がした。 そして、先ほどまでの不安げな顔とは違う、真面目な顔になって言った。「どこで何をしていたんですか?」 静かに、低く響く声に私は内心戸惑ってしまう。「何を、というのは……」 言いな
香の匂いだろう。独特の、甘い匂いが部屋から溢れてくる。 扉を閉めて私は薄暗い室内へと目を向けると、長椅子に腰かけて黒い切子を手にゆったりと座る皇帝陛下の姿が目に入った。 深紅の寝間着を着て胸元がはだけて見える。 室内は暖かく過ごしやすい。 陛下は私の方を見ると、にやりと笑い切子をこちらに向けて言った。「こちらに来い、シュエファ」 私は頷いて答え、外套を脱ぎ陛下が座る長椅子に近づく。 そして外套を腕に抱えたまま、すっと立ち陛下に向かって言った。「お呼び出しに応じ、参上いたしました」 私の言葉を聞き、陛下は声を上げて笑った。「ははは。ずいぶんと硬い挨拶だな、シュエファ。ツァ
この胸の痛みは何だろうか。 そう思いつつ私は気弱そうな顔をしている殿下を見る。 先ほどまで招待客たちの前で凛と対応していた姿からは遠い姿だな。 ずっと気を張っていたのだろうか。 役割を演じなければいけない殿下。そう思うと心がすこしばかり痛くなる。 私が後宮に入る、ということは私は殿下と…… あらぬ想像をしてしまい、私は殿下から目をそらした。まだ後宮に入る、とは決めていないじゃないか。 そもそも私に、殿下の後宮に入る資格などないのだから。 私は皇帝陛下の寵愛を受けてきた。そんな私が殿下に愛されるなんてあってはならないだろう。 そう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと立ち上がる
ただ手を握られているだけなのに、心臓が早鐘をうっているのがわかる。 もしかしたら顔が紅いかもしれない。 自分から殿下のそばに座ったとはいえ、この状況は何だ。 殿下のこの距離感はおかしいんじゃないだろうか。 そう思うのに私は全然動けなかった。 殿下のまとう柔らかい匂いが私の鼻孔に絡まってくる。そして微笑み私の顔をじっと見つめる殿下の瞳に、私は動揺していた。 その視線はまるで恋をする乙女のような、熱を帯びたものに見えた。 私の動揺した顔が、殿下の深い青の瞳に映っている。 殿下はずい、と私に顔を近づけてくると、「シュエファさんがいるから僕はまだこうしてここにいられます。じゃなか
十二月の半ば。殿下の誕生日がやってきた。 宮廷にある大広間は多くの女官たちが駆り出され、夕方から行われる祝宴のため、テーブルや椅子の用意がすすめられていた。 昼は皇帝陛下の御前で誕生日の儀式と挨拶だ。 私は護衛として、殿下と共に宮廷の謁見の間を訪れていた。 紅い玉座に座る皇帝陛下の足もとに、真っ白な虎が堂々とのぞべりこちらを見つめている。 あの虎は皇帝一家の守護獣だ。もう一匹龍がいるが、身体が大きく室内では邪魔になるからか滅多に姿を現さない。 虎も特別な場でないと出てこないので、この場が重要な場であることを表している。 殿下を見つめる皇帝陛下の目には何の感情もない。あの方に情







